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2010年11月13日土曜日

人間はメディア的動物である

 人間は古来から、何か残そうと営みをしてきた。最初は、壁画などに見られる石壁への削り込みなどである。自分たちの生きていく術をと言うよりも、何か本能的に伝えたいというところから、または、未来の誰かとつながりたいという想いから食満ち足りた後に石を削ったのだ。その後、木の葉に書き込んだ方が、多くの情報量を伝えられることを発見し、パピルスのような紙のフォームに近いものを選び、とにかく書き残した。

 その後、15世紀になるとグーテンベルクにより印刷システムがの開発され、大量の印刷物が供給されることになった。ルネッサンス期における3大発明は、火薬、羅針盤、印刷技術であるが、この印刷技術により、情報伝播の力が文明社会の形成に大きな影響力を持つ。この辺から、マーシャル=マクルーハンの主張する「メディア論」が始まってくる。彼のメディアの定義は、人間の五感や能力を拡大させるモノというということである。人間が受け取る情報のうち80%は視覚からの情報である。 視覚器官83%聴覚11%臭覚3.5%触覚1.5%味覚1%。と配分されていると言われる。

 アリストテレスは「人間は社会的動物である」唱え、学問の体系を整理した。約2300年も前の話である。確かに、人は本能だけでなく、知識を蓄え、智慧にすることで文明社会を発展させてきた。そういう意味では、知ることを技術としてカタチにしてきたとも言える。人は、モノを見る視覚をテレビにより拡大させ、電話により聴覚を拡大させ、乗り物により移動の機能果たす足をかくだいさせているのである。このように人は、メディア的(感覚の拡大をおこなう)動物であると言うことが出来る。例えば、人の情報収集は、視覚から80%と言われているが、更にその感覚を押し広げるものがテレビということになる。

 そして、今、情報は現代社会の中に毛細血管のように入り込み人間社会の様々なところへ影響をおよぼしている。資本主義社会のお金に対する課題も、見えない価値の見える化する装置としてのメジャーのようなもので、お金自体には何の価値としての本質はない。あるのは交換をする際の基準としての機能だけである。しかし、資本主義の本質は金銭の拡大化であるという、ある種の奇形が社会のカタチをゆがめてしまっている。お金がたくさんあれば幸せになれると信じている人は、更なるお金を求め、更に自分の首を絞めることになる。

 人は、情報発信と受信をおこなうことに存在価値を認識し、価値を創造している。ビジネスにおいても、価値の具現化と交換が本質であるという基本に立ち返らないと、行く先々で連戦連敗は免れない。時代の社会的なパラダイムが大きく変化してるのだ。大地が割れ、自分の立っている場所をきちんと確認、認識でいないと「心の揺らぎ」の中で迷走することになる。人の本質を知り、現代の環境について考え、何をするべきなのかを判断し、アプローチすることが重要なことだと考える。「人は、何者なのか、どこから来たのか、そしてどこへ行くのか」という問いから始める必要があるのではないだろうか。