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2010年11月13日土曜日

人間はメディア的動物である

 人間は古来から、何か残そうと営みをしてきた。最初は、壁画などに見られる石壁への削り込みなどである。自分たちの生きていく術をと言うよりも、何か本能的に伝えたいというところから、または、未来の誰かとつながりたいという想いから食満ち足りた後に石を削ったのだ。その後、木の葉に書き込んだ方が、多くの情報量を伝えられることを発見し、パピルスのような紙のフォームに近いものを選び、とにかく書き残した。

 その後、15世紀になるとグーテンベルクにより印刷システムがの開発され、大量の印刷物が供給されることになった。ルネッサンス期における3大発明は、火薬、羅針盤、印刷技術であるが、この印刷技術により、情報伝播の力が文明社会の形成に大きな影響力を持つ。この辺から、マーシャル=マクルーハンの主張する「メディア論」が始まってくる。彼のメディアの定義は、人間の五感や能力を拡大させるモノというということである。人間が受け取る情報のうち80%は視覚からの情報である。 視覚器官83%聴覚11%臭覚3.5%触覚1.5%味覚1%。と配分されていると言われる。

 アリストテレスは「人間は社会的動物である」唱え、学問の体系を整理した。約2300年も前の話である。確かに、人は本能だけでなく、知識を蓄え、智慧にすることで文明社会を発展させてきた。そういう意味では、知ることを技術としてカタチにしてきたとも言える。人は、モノを見る視覚をテレビにより拡大させ、電話により聴覚を拡大させ、乗り物により移動の機能果たす足をかくだいさせているのである。このように人は、メディア的(感覚の拡大をおこなう)動物であると言うことが出来る。例えば、人の情報収集は、視覚から80%と言われているが、更にその感覚を押し広げるものがテレビということになる。

 そして、今、情報は現代社会の中に毛細血管のように入り込み人間社会の様々なところへ影響をおよぼしている。資本主義社会のお金に対する課題も、見えない価値の見える化する装置としてのメジャーのようなもので、お金自体には何の価値としての本質はない。あるのは交換をする際の基準としての機能だけである。しかし、資本主義の本質は金銭の拡大化であるという、ある種の奇形が社会のカタチをゆがめてしまっている。お金がたくさんあれば幸せになれると信じている人は、更なるお金を求め、更に自分の首を絞めることになる。

 人は、情報発信と受信をおこなうことに存在価値を認識し、価値を創造している。ビジネスにおいても、価値の具現化と交換が本質であるという基本に立ち返らないと、行く先々で連戦連敗は免れない。時代の社会的なパラダイムが大きく変化してるのだ。大地が割れ、自分の立っている場所をきちんと確認、認識でいないと「心の揺らぎ」の中で迷走することになる。人の本質を知り、現代の環境について考え、何をするべきなのかを判断し、アプローチすることが重要なことだと考える。「人は、何者なのか、どこから来たのか、そしてどこへ行くのか」という問いから始める必要があるのではないだろうか。

2010年10月2日土曜日

ビジネスのOperationSystem対応が、これからの成功を決める!

 最近は、経済も停滞感があり何をやっても上手くいかない感がある。80年代は、Japan as No1 で、日本がグローバルであったかどうかは別として、Made in JAPANの商品は、世界を席巻していた。確かに、バブル期もあり経済大国として勢いもあり、社会にも活気があった。しかし、その経済も失速して、お上の施策も空転ばかりしていて、本来そのポジションで悪戦苦闘すべき人たちが苦労することなく、保身ばかりなので、本当に「日本」が良くなるはずがない。そして、極めつけは、単なる目立ちたいだけのハリキリおじさんが、国家元首となり、上滑りの施策を次々と繰り出しても、何の成果も期待できない。しかし、なぜこのように期待できないなと感じることが出来るのか?それは、この時代を本質的に捉えているかどうかを直感的に感じとるからであろう。
 
以前とこれからという意味で、政治の状況もかなり変わってきている。なので、この時代を本質的に捉えるべく真剣に考えている人の言葉は、何かこの人を信用してみようという感じにさせるのだと思う。しかも、現代は、かなり複雑化しているので、これまでの成功体験を後追いしても、上手くいくはずがない。行政関係者は、「部分最適ばかりしているから、問題が解決しないので、全体解決をすべきだ」ともっともらしい事を言うが、決意も熱意も、意気地もなく、自己犠牲を払っても何かを本気でやろうとしない人たちの言葉は、人々へは届かない。

 特に、これからは、やる気がない人が、偶然に、何か素晴らしいことを成し遂げることはない。本質的には、「汗かき、ベソかき、恥かき」というところを乗り越えるところから、真の活動のすべては始まる。これまでは、多少やる気がなくても、その人にしかない技術があれば、時代の最先端へと導かれることがあったかもしれない。しかし、最近のビジネスでは、その可能性は少ない。なぜなら、最近は技術的、物理的な優位性は、必ずしも、そのままビジネスの優位性として成立しにくいからである。これまでは、可視化や簡易化により、より多くに人たちと物理的に、空間的に、技術的に共有しようとしてきた。そして、この方向性で活動することで、有用性が確保することが出来た。なにより、カタチになると実感出来きた。

 しかし、現代ビジネスでは、以前のように経営の見える化による戦略や人事制度では立ちゆかない。むしろ、これらを詳細にやろうとすればするほど、真逆の効果をもたらすことになる。あせる経営者は、更に動揺し、その方向性でアクセルを踏み込み、地獄へまっしぐらとなる。これは、もう悲劇である。考えるに、この要因は社会のプラットフォーム違いに起因しているからではないだろうか。パソコンで言えば、乗っているオペレーションシステムが違うのである。WindowsXPに最新のアプリケーションを乗せても、上手くいくこともあれば、そうでないこともある。Windows98では動作しませんと明記されていることもある。しかし、ビジネスでは、このOperation System (OS)部分に言及されることなく、アプリ(新しい方針や施策)が強引に導入される。これでは、上手くいくはずがない。

 個人的に信頼を寄せる人たちは、異口同音に『本質的で、目に見えなく、信頼に基づくことの重要性について』言及している。これこそが、社会でもビジネスでも、指針導入前に、まずしっかりと考えなければならない、時代の、ビジネスのOSなのではないだろうか。この部分をアップデートするというよりは、パソコンのOSを入れ替えるように、大胆に勇気を持って、入れ替える必要がある。ビジネス対する考え方を入れ直すので、これはどんな人でもなかなか難しい。日頃からよく考え抜いている経営者であっても、茫漠と気づくかのレベルであるから、この問題解決は最初の難関であり、この視点に気づけるかどうかが分水嶺と言える。


 だから、古いOSは、お早く、近くのゴミ箱へ!

2010年9月17日金曜日

現代の情報量が、今の経済を停滞させているばかりか意識も・・・

 現代ビジネスでは、創造性が求められている。時代がより多様化し、スピードが速いために、頻度も求められる。また、ビジネスの中での、必要な基本と時代に合わせたアタッチメント部分が、情報というカタチで氾濫している。何が新しくて、古いのか解りにくいようなカタチで、ものすごい量で次から次へと、モノが氾濫して、選べなくなってしまう。
 
 液晶テレビだ、地デジだ、ブルーディスクだと宣伝広告され、3Dテレビも投入されるが、消費者側でも何が欲しいのわからなくなっている。人間は、数種類の中から好きなものを選ぶが、ある範囲を超えると判断を停止してしまう。ある意味で、経済が停滞しているのは、1つのモノに対して情報量がその10倍を超えているから、ユーザー側が判断停止になり、モノを購入しなくなったのではないだろうか。

 以前、スポーツカー所有はステイタスであり、その購入を原動力に変えて日々の活動を加速させてきた人たちが、最近は元気がない。社会の停滞感に包み込まれて、目標意識を高く保てないのである。そればかりか、漠然とした不安があり、活動意欲を阻害している。現代社会は、根本のところで、そういう状況に突入してしまった。目前の対処だけでは、根本的には対応できないだろう。と言うか、そのようにいくら、頑張っても報われない。

 人は「意識」の動物だ。高く、遠くへ、目標を投げ出して、早く、合理的に、正確に、目的地に到達することに意識をリセットする必要がある。社会の「停滞感」に取り込まれることを避けて、自分自身で意識的に考え、小さく、細かく、機能的に、目的達成する喜びを創造することが肝要である。たとえ、経済が、政治が、社会が、低迷していようとも、我々の意識を停滞させてしまってはいけない。ここから、どのような意識を保つかが、我々の真の価値の試されるところであろう。同志よ、周囲のため息に惑わされることなく、道標の元で合流しようではないか。
 

2010年9月1日水曜日

命短し、学べよ青年 ~出版について~

 最近、内田樹さんのブログで「出版バブルのバルブを閉めるのは作者しかいない」ということで、ちょっとした物議を醸し出したようだ。確かに、最近の出版ラッシュによる本の質の低下は眉をひそめるようなものが多いのは事実だ。以前好きなアーティストが、本を出版するのが夢だというような事を書いていて、そうか「本」を一冊書くというのは男子の本懐なのだと印象づけられたことがあった。

 以前、1冊出版社から本を出したことがある。その時は大学の中で仕事をしていた。ほかにも、いろいろな出版企画があり、何だか怪しいなと思うような企画もいくつかあったような気がする。でも、実際の本を出版すると言うことは大変な事で、とても編集者とサポートしていただく方々がいないと自分の「本」が社会に出ることはないのだなと実感した。よく、家族や出版社の人へ、謝意を示すあとがきが等があるが、なるほどそんな気持ちのなるものなのだとよく解る。

 オフィスにいるといろいろな売り込みがあり、中にはややこしい話があり、本を出版しませんかというのもある。誘い文句はこうだ「自社のサービスが売れますよ。」。このご時世、そうかそれならば、本を書くのは大変だけど、嫌いじゃないからチャレンジしてみるかと思い直し、その後の話を聞くことにする。すると、私は忙しいから、後日他のライターが来て話を聞くのでそれを元に原稿をおこし、すべて我々プロにまかせて欲しいという。その後、私のところへ請求書がくるのだそうだ。

 ずいぶんなめられた話だなと思うのにそんなに時間はいらない。気分が滅入って来るので、早々と帰っていただくことにする。私の先ほど得意満面に話した内容など関係ないのだ。本を出してやるからお金を用意しなさいという事なのだ。こんな風に作られた本も実際の本屋に並ぶだというのだから、そりゃ本屋に行っても、昔のように「立派な本」に出会うはずがない。

 本について再考する。こういう時は、やはり古典を読むに限る。経済の分野であれば、マルクス「資本論」とケインズ「雇用利子および貨幣の一般理論」は必須だ。資本主義社会の実態は何なのかという事が、おぼろげながらも感じることが出来る。最近、骨太の理論との格闘をしていないな。今からでも、もっと難解な本と格闘して、いったい世の中で起きているのは何なんだということを自分自身の力で考えてみる必要がある。でないと、いつまでたっても、評論家の思いつきに振り回され、挙げ句の果てに、何が本当か自分で判断できなくなってしまう。その前に、しっかりと学ぶことが大切だ。

 最近、きちんと本を読み、自分の活動しっかり見据えている方とお話をして、まだまだ学ばないと自分自身の依って経つところがなくなってしまうのではないかと気づかされた。年を重ねて難しい本は読めないなというのは嘘だ。私よりも年上の人が難解な大きな問いに向かうべき学ぶ姿勢に接すると、まだまだしっかり学ばないといけないと自分を戒めるのであった。

今回は、かなり柔らかいトーンになったけど、こんなのもあります。
 

2010年8月27日金曜日

ビジネス活動と意識の高さ

 日頃、クライアントと接していてとても気になる事がある。「意識」についてである。しかし、意識の高さというのは言葉の端々にあっても、具体的には解りにくい。一方、ビジネス活動は、スポーツと一緒で、常に明瞭な結果を伴いその成果が求められる。最後にカタチになって現れるのは、具現化された結果であると言える。経営学は、結果に至るまでを、より、客観的に、より具体的に、より合理的に展開することが求められる。社会科学の一つの分野であるので、実証的科学であることは必然であると言える。

 コンピュータは、ゼロとイチの記号で2進法で論理処理を速め効率的に結果にアプローチする。もともと人間の苦手とする部分を補うためのツールとして機能しているので、以前はインターフェイスも一部の解る人にしか解らないものであった。しかし、人がこれらの道具を使いこなすには、人の特性を視野に入れ、扱いやすいモノにした。特に、マウスを直感的に操作させる発明は、アップルコンピュータにより導入され、パーソナルコンピュータを身近なモノにし発展に寄与した。

 最近では、ユニバーサルデザインという考え方も浸透してきて、道具は多くの人に使いやすくなければ存在の意味がなく、道具を使う方向へと向かっている。使いやすさは、単に便利と言うだけでなく、使う心地よさや満足感なども充実してきていて、個々の志向性なども配慮されてきている。自動車や電車を取り上げてみても、一昔前よりもはるかに乗り心地は良くなっていると言える。人間の生態学や心理学も取り入れられて、ますます便利さを極めている。

 ビジネス活動も例外ではない。より人間性を重視する傾向へ向かっている。現代はストレス社会であるので癒しを併存させ、人間性の解放をうたうモノもある確かにある。が、しかし、所詮人のやることである。人は元来、合理的な存在ではない。外的に、よりよい方向性をいくら仕向けられたところで、意識が向いていなければ、単なる作業に終わってしまう。人間は、いくら理性の元に効率的に合理的に仕向けられても、内面になる意識を高く持つことがなければ、きちんとした成果に結びつくことは皆無に等しいと言えるのではないか。

2010年8月23日月曜日

不安定だから、成長できる

 時代が不安定で、先が見えない。情報が錯乱していて、どれを信じたらよいのかわからない。情報整理をするための手法が次々と編み出され、目的と手段が入れ替わる。時代が、とても不安定な状況である。何かこれをやれば良いという特効薬を欲しながらも、そんなモノはあるはずがないという冷めた感覚がある。いったい、どうしたものやら。時代が、静かに沈みゆく船であっても、沈黙を貫き、他の者の離脱を待ちながら、何とか自分だけが生き残れれば良いと信じるしかないのであろうか。

 ゆえに、ポジティブな発想力や、自分を前向きにする方法に活路を見いだそうとする心理が流行している。これなども、末法思想のごとき、コーチングやヒーリングなどの手法にすがろうという気配を感じる。出版不況と言われているが、書店に並ぶ本のタイトルは、現状打破のためのノウハウや何かスピリチャルな、通常の理解を超える内容など、本当に、そこまでやらないと救われないのであろうか?皮相的な内容の本が、流行しているとなると悲観的な気分になる。もっとも、メディアの情報も浅薄なものばかりのような気がする。

 しかし、本当に不安や閉塞感は、そんなに急いで払拭しなければならないとすれば、そんなに状況が逼迫しているのだろうか。歴史を振り返っても、振り子のように反動があり、時代は続いてきた。安定した時代と不安定な時代の間を、振り子のように行ったり来たりしている。中世は、土地に縛られ、暗黒の時代だという見方もあるが、逆に安定していて、自殺者も少なく絶望感も充満していなかったという視点もある。

 大きな区分はあれども、その中で問題提起と解決がなされ、その解決に向かう中で、進歩発展が続きてきた。子供は様態がすぐに変わる場合がある。良くも悪くも、つまりは不安定だから、大きく成長できる。安定したら、成長しにくい。それは、企業や組織も同じだ。むろん、人も例外ではないのだ。私たちは、無用に不安を恐れる必要はない。その先に進歩があることを理解していれば、不安をやみくもに取り除く必要はない。底をつけば、必ず上昇に向かう。進歩や成長を信じる力は、自分を信じる力を養うことである。

2010年8月18日水曜日

時代における望まれる要件とは

 時代が蒸気機関車であった頃、スピードは重要な要素であった。もっと早く、もっと効率的に、もっと実用的に、具現化する必要があり猪突猛進する目標があった。また、これらが時間と共に達成されると、その利便性の恩恵は計り知れない効果を生み出した。時間の倹約もそのひとつである。

 しかし、人間の体力、気力、能力はそれほど進化も進展もしていない。自転車のスピードをどんどん加速していくと、漕いでいるペダルが空転する。自転車は加速しているのに、足下が追いつかないあの不安感。今の時代に起きている事態はこういうことなのではないかと思うことがある。であれば、やみくもにスピードを上げていけば、暴走自転車をさらに危険な状態に追い込むことになるのではないだろうか。
 
 もしこれが、組織に置き換えると、弱いところから軋みが始まる。ナイーブな人から精神的に追い詰められる。だとすると、弱い人を強い人に訓練したり、入れ替えれば良いということでは、根本的な問題は解決できないのではないだろうか。人が自信の力でつくり出すことができないスピードで自転車を走らせることは操縦不能になり、大きな事故を自ら引き起こしているようなものだ。

 最近は、自転車が見直され以前よりも一般道で見受けられるが、ほとんどの自転車が信号無視をして危ない乗り方をしている輩も多く見られる。自転車もハイテクの塊で、安価なオートバイを数台買える高価なモノもある。以前よりも、圧倒的にスピードが出せる乗り物に進化している。が、時間の短縮やスピードを求めて、進化と共に、以前よりも危険な乗り物なっている。問題は、自転車に乗るその意識である。

 どんなにツールが進化しても、使う意識を鍛えないと無意識に危ない状況に追い込むだけである。昔の武士は、技術の鍛錬と共に精神の力も鍛えた。現代でもプロスポーツ競技などでも、インナーワークなど含め内面を鍛えることが注目をされている。このように、外面的な進化を支えられるような内面的な土台を構築しないとバランスを失うことになる。

 自分の体型にあった洋服を着るように、「等身大」の判断、能力の発揮がキチンとされていれば心身共に安定をする。やみくもにスピードを追求することは危険だ。自分が加速されてている状態を実感しながら、「等身大」をキーワードに、進化進展を追い求めることが大切だ。これが逆転すると、重大な事故に自ら向かって行くようなものではないだろうか。

2010年8月13日金曜日

実感のない判断はしない

 多くの情報があふれると、乗り遅れまいと更に多くの情報を集める。このスパイラルに入ると判断力も変わってくる。何か不幸があると、時代遅れだったからだと、さらに情報をかき集めることを正当化してしまう。

 人間と他の動物との大きな違いは、脳の進化である。それも生命の歴史が40億年ある中で、ひとは、約50万年前から脳の巨大化がはじまり、現代人が登場するにはわずか15万年前だ。人は、ごく短い間で原始人から現代人になったのだ。また、文明としては、数万年前から始まったとしたら、文明を謳歌する現代人と言えども、まだわずかな時間しか過ぎていない。

 つまり、脳の進化と人間の進化には、生命としての歴史からみるとごくわずかな進化でしかないということだ。ここで、脳を鍛えたところで、飛躍的な進化は望めそうもない。一方人間が生み出した科学により、文明は相対的に人間の進化よりも遙かに進化してしまった。これに追いつき追い越せと煽っているのは、情報を提供しているメディアである。

 この煽動に蹂躙されて黙認し続ける必要があるのか。と考えると、生命体としての自分と何か情報を受け取り判断している自分の間をしっかりと結びつけないと実感のない判断が生じることになる。この実感のない判断は、次の実感のない判断を呼び込むので負の連鎖が始まってしまう。よって、私は、実感のない判断は極力しないように考えている。

2010年8月12日木曜日

共有する情報について

 20世紀型の社会から、21世紀型の社会へ時代はうねりの中にあり、戦後の状況からから奇跡的な復興を遂げた日本には、多くの必然があった。ひとつは、先進国へ追いつけ追い越せという国全体での意識の共有である。戦後は、特に国としてというだけでなく、それぞれの日本人が、希望と共にこれまでの状況から新しい状況を本気で作り出そうとしていたからである。また、国の復興という大きな目標は、子供から大人まで理解しやすい状況があり、ヒーローがそのアイコンとなり、うねりのような状況下では、意識の共有が自然と出来ていた。

 もちろん市場の著しい進展も大きな追い風となった。願い、努力したモノは、ほとんどの確率で実現可能でもあった。まるでエスカレーターの上を走るように、経済成長を遂げてきたのである。ここでは、大きく間違った方向性にはいかない時代の箍が機能していた。社会は不安定ながらも、大きくドライブがかかったように疾駆していた。目標設定にしても、今後の在り方にしても、意識的な共有が自然と出来る状況にあった。

 しかし、市場の閉塞感と共に、方向性を失った船のゆれは大きくなるばかりである。嵐の中の難破船のごとく、操縦不能で何をしても無意味のようにも思えてくる。世は末法思想の状況と同じような状態に突入している。迫りくる社会の激流は、従来の企業理念にしがみついていても、乗り切れる代物ではない。企業を、人間を合理的な存在とすることに無理が生じてきているのではないだろうか。ロジカルな解答だけでは、客観的な答えは得られても、実社会に対する「在るべき解答」にはほど遠い。更に悲劇なのは、この状況を理解しないまま、次から次へと同じ失敗を繰り返すことだ。
柳の下の蛙のように、偶然、柳の木に飛びつくことが出来たしても、風の存在を知らなければ、次にはいつ飛びつけるかわからない。

 これまでの社会では、成長や進歩が前提とされて来た。そのために比較する数値化を、その指標としてきた。しかし、根本的に、成長や進歩に対する疑問が出てきている昨今、これまでのような問題発見と解決という仕組みについて、もう少し慎重になる必要があるのではないだろうか。人間本来の状態に立ち戻らないと、新たな進展は望めない。これまでのような外部に向けて、「見える化」のようなことでなく、勝てば良いということでもなく、成果や結果が出ればよいということでなく、その「プロセスを共有しようと知る意識」が大切である。ここでは、過去や未来に対して、何らかの影響を持つということでなく、現在、今ある状況を、全体でシェアする気持ちが必要であると考える。各個人が無意識の中にありながら、全体と繋がるモノ。これを組織で共有すると、手法やツールに頼らなくても良い状況が醸し出される。これこそが、これからの共有する意識であると思われる。

2010年8月4日水曜日

「情報化時代」のツールとは何か?

 今日の情報化時代は、新しい方向性が見えにくい。経営の見える化において、指標と共に数値化され、経営の合理化をはかってきた。「情報を征するモノがビジネスを征する」と言われ、IT技術が日進月歩のごとく進化していると多くは考えられている。しかも、この情報戦線を勝ち抜かなくてはならないという号令のもとに、結果主義、成果主義が唱われている。では、その情報化時代のツールとは何か。

 時代の流れが比較的緩やかな場合は、全体として向かうべき方向性がわかりやすく、隣人とも共有しやすい。しかし、時代の流れが急激な変化を伴うと全体としての方向性が浸透する前に、細かく舵を切らなくてはならない場合はそうもいかない。人間が自然と共有するためのバッファが少ない。全体で共有する前に、すぐに目の前の危機に対応する必要がある。それは、大型の船で氷河を避けながら運航するようなものである。しかも、これには一定以上の能力を要するように、舵取りには職人技を要する。であれば、個々の方向性を持った中型、もっと小回りの良い小型の船(または舟)に乗り換えた方が、船を先に進めることについては合理的であると言える。

 しかし、実際は大型の船を操る理論で、この激流とも言える流れを乗りこなすことが、社会の風潮としてあるのではないだろうか。目先の対応に追われ、根本的に考える能力が欠如しているように感じる。ここで必要な事は「現状認識」である。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」をどう理解するかである。。ここでは敵を知るとは、対象とした相手でなく「環境および状況」適切に判断することであると捉える。現状をしっかりと受け取らないと、正しい判断はできない。情報化時代にまず必要なことは、正しい認識を基にした判断ではないだろうか。

 それは、正しく「情報化時代を」を認識することでもある。ここでは、見えない敵を打ち負かすという発想を遠ざけたい。見えないモノを擬似的に可視化することも、誤った判断、求めている結果と逆なモノを引き寄せてしまうからである。巷で言われる「成果主義」は、正論のように映るが、少なくとも日本企業でこの導入は、大切なモノを破壊し、不治の病「エイズ」にかかった病人のようになっていると思われる。これは企業の現代病である。この感染を避けるためには、正しい認識と、正しい判断を持ち、さらに掘り下げる姿勢が重要である。現代の情報化時代における身につけるべきツールとは、ITのスピードを加速させ、人間の判断力を超えて決断を迫るツールでなく、自分のスタイルを維持するために、判断力をしっかりと構築することである。この対応こそが、情報化時代をむやみに暗黒時代にしないための、必要な態度、必要なツールなのではないだろうか。

2010年8月2日月曜日

現代の情報化社会とは

 現代社会では、情報と人々の活動が密接に結びついている。言わずもがな、これはITの飛躍的な進化によるところが大きい。そこで、人々のライフスタイルが変化し、ビジネスの価値や要件定義が大きく変わってきている。しかし、人間そのものが新たな情報化社会に適応しているのかということには、様々な意見がある。1980年代のマルチメディアとは何かという議論の際にも、人間性との共存は叫ばれていたので、人間と文明の関わり合いは21世紀に入りに始まったというわけではない。

 文明の発達による便利さとは、人間側のアプローチも要求される。例えば、自動券売機の前で、地方から東京へ行こうとしているおばあさんは、途方に暮れてしまう。これまでは、「東京まで切符を1枚ください」と言えば、ていねいに駅員さんが教えてくれる上に、注意事項や道中を気遣ってくれた。ここでは、自動券売機を自由に扱うことが出来なければ、無用の長物となってしまうのだ。自動化や機械化は、費用削減や効率性から導入されることが多いが、受益者へ新たなアクションを強いる。この点の修正が、これからの社会の重要な点である。

 加速度的な文明の発展は、20世紀と21世紀では明らかに違いが出来てきているのではないだろうか。物づくりが、それを活用する人たちを追い越して、さらに人間性を置き去りにしてしまったのではないだろうか。この100年間で、文明は大きな進化を遂げ、空を自由に飛ぶことはもちろん、月へも人を運んでしまった。この科学のパワーで、人間はより幸せに一歩近づけると確信をしていた。ところが、この科学文明は、人間性の迫害と同時に、内面的な成長を求めていたのだ。これに対する様々な警鐘はあったが、具体的な手立ては講じられることなく、表面的な成果を享受してきた。しかし、これには大きな代償があることに気づき始めたのは、21世紀も少し経ってからである。人々は、結びつきを求め合う動物であり、社会的な結びつきを何らかのカタチで求め合っている。食べ物の例えると、天然のうまみ成分を排除し、化学調味料のグルタミン酸でおいしさを人工的にすり替えられているようなもので、もう一度、人間本来の姿を見つめ直したあらゆる社会活動を見直す必要があると思われる。

 その際、情報についても同様で、形骸的なことだけでなく、その発信者の見えにくい旨み成分をしっかりと受け取らないと、その本当のおししさや味を賞味することはできない。効率化の落とし穴に気をつけて、蓋をしないと活動そのもの意義が低減するばかりか人を陥れる害となりうることがある。ビジネス活動における「成果主義」がまさに、さもありなんと存在しながら、実は人々の活動に弊害をもたらす産物であったいうことが、今日証明されているように考えられる。真の情報化社会とは、効率性や成果主義を助長させるものではなく、人間本来の社会的動物であるというところから、人としての魂を込めた想いを同時に乗せないと、人を幸せにする本来の「情報化社会」というのは築くことは難しいのではないかと考える。